地獄の夏

 八月二十四日。木曜日。 曇り。地獄の夏。気が狂うかも知れぬ。いやだ、いやだ。何度、自殺を考えたか分らぬ。三味線が、ひけるようになりましたよ。踊りも出来ます。毎日、毎日、午前十時から午後四時まで。演技道場は、地獄の谷だ! 学校は止《や》めている。もう、他に行くところがないのだ。罰だ! やっぱり役者を甘く見ていた。 呪《のろ》われたるものよ、汝《なんじ》の名は、少年俳優。よくからだが続くものだと、自分でも不思議に思っています。覚悟は、していたが、これほどの屈辱を嘗《な》めるとは思わなかった。 きょうも、お昼の三十分の休み時間に、道場の庭の芝生に仰向けに寝ころんでいたら、涙が湧《わ》いて出た。「芹川さんは、いつも、憂鬱《ゆううつ》そうですね。」と言って、れいの坊やが傍《そば》へ寄って来た。「あっちへ行け!」と言った。自分でも、おや? と思ったほどの厳粛な口調であった。僕の悩みは、お前たち白痴にわかるものか! 坊やの名は、滝田輝夫。むかし帝劇女優として有名だった滝田節子のかくし子だそうだ。父は、先年なくなった財界の巨頭、M氏だそうだ。十八歳。僕より一つ年上であるが、それでも、やっぱり坊やである。白痴にちかい。けれども、演技は素晴らしい。遊芸百般に於《おい》ても、僕などとても、足もとにも及ばない。こいつが僕のライバルだ。生涯《しょうがい》のライバルかも知れない。いつでも僕は、この白痴と比較されて、そうしてこごとをもらうのである。けれども僕は、白痴の天才は断然、否定しているのだ。今に見ろ、と思っている。無器用ものの、こった一念の強さほど尊いものは無いのだ。春秋座に於て、滝田を疑問視して、芹川を支持しているのは、団長の市川菊之助ひとりである。他は皆、僕の野暮ったさに呆《あき》れている。理窟《りくつ》や、という家号《やごう》を、つけられている。きょうは、道場からの帰りに、大幹部の沢村嘉右衛門と市電の停留場まで一緒だったが、

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