大事な思い出

「失礼ですけど、ファウストがよくわかりますか?」「ちっともわかりません。でもあれには大事な思い出があるんです。」「そうですか。」また笑い出した。「思い出があるんですか」柔和な眼で僕の顔を見つめて、「スポーツは何をおやりです?」「中学時代に蹴球《しゅうきゅう》を少しやりました。いまは、よしていますけど。」「選手でしたか?」 それからそれと、とてもこまかい所まで尋ねる。お母さんが病気だと言ったら、その病状まで熱心に尋ねる。ちかい親戚《しんせき》には、どんな人がいるのか、とか、兄さんの後見人とでもいうような人がいるのか、とか、家庭の状態に就いての質問が一ばん多かった。でも自然にすらすらと尋ねるので、こちらも気楽に答える事が出来て、不愉快ではなかった。最後に、「春秋座の、どこが気にいりましたか?」「べつに。」「え?」試験官たちは、一斉《いっせい》にさっと緊張したようであった。主任のひとも、眉間《みけん》にありありと不快の表情を示して、「じゃ、なぜ春秋座へはいろうと思ったのですか?」「僕は、なんにも知らないんです。立派な劇団だとは、ぼんやり思っていたのですけど。」「ただ、まあ、ふらりと?」「いいえ、僕は、役者にならなけれぁ、他に、行くところが無かったんです。それで、困って、或《あ》る人に相談したら、その人は、紙に、春秋座と書いてくれたんです。」「紙に、ですか?」「その人はなんだか変なのです。僕が相談に行った時は風邪気味だとかいって逢ってくれなかったのです。だから僕は玄関で、いい劇団を教えて下さいって洋箋《ようせん》に書いて、女中さんだか秘書だか、とてもよく笑う女のひとにそれを手渡して取りついでもらったんです。すると、その女のひとが奥から返事の紙を持って来たんです。けれども、その紙には、春秋座、と三文字書かれていただけなんです。」「どなたですか、それは?」主任は眼を丸くして尋ねた。

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