美しい青年

 僕たちは中央の大きいテエブルのまわりに坐《すわ》って、その美しい青年から原稿用紙を三枚ずつ貰《もら》い、筆記にとりかかった。何を書いてもいい、というのである。感想でも、日記でも、詩でも、なんでもいい、但《ただ》し、多少でも春秋座と関係のある事を書いて下さい、ハイネの恋愛詩などを、いまふっと思い出してそのまんまお書きになっては困ります、時間は三十分、原稿用紙一枚以上二枚以内でまとめて下さい、という事であった。 僕は自己紹介から書きはじめて、春秋座の「雁」を見て感じた事を率直に書いた。きっちり二枚になった。他の人は、書いたり消したり、だいぶ苦心の態《てい》である。これでも、履歴書や写真に依《よ》って、多くの志望者の中から選び出された少数者なのだ。ずいぶん心細い選手たちである。けれども、こんな白痴みたいな人たちこそ、案外、演技のほうで天才的な才能を発揮するのかも知れない。あり得る事だ。油断してはならない、などと考えていたら、番頭さんがひょいとドアから顔を出して、「お書きになりました方《かた》は、その答案をお持ちになって、どうぞこちらへ。」また御案内だ。 書き上げたのは僕ひとりだ。僕は立って廊下へ出た。別棟《べつむね》の広い部屋に通された。なかなか立派な部屋だ。大きい食卓が、二つ置かれてある。床の間寄りの食卓をかこんで試験官が六人、二メートルくらいはなれて受験者の食卓。受験者は、僕ひとり。僕たちの先に呼ばれた五人の受験者たちは、もう皆すんで退出したのか、誰《だれ》もいない。僕は立って礼をして、それから食卓に向ってきちんと坐った。いる、いる。市川菊之助《いちかわきくのすけ》、瀬川国十郎、沢村嘉右衛門《さわむらかえもん》、坂東市松《ばんどういちまつ》、坂田門之助、染川文七、最高幹部が、一様に、にこにこ笑ってこっちを見ている。僕も笑った。「何を読みますか?」瀬川国十郎が、金歯をちらと光らせて言った。「ファウスト!」ずいぶん意気込んで言ったつもりなのだが、国十郎は軽く首肯《うなず》いて、「どうぞ。」 僕はポケットから鴎外訳の「ファウスト」を取り出し、れいの、花咲ける野の場を、それこそ、天も響けと読み上げた。この「ファウスト」を選ぶまでには、兄さんと二人で実に考えた。春秋座には歌舞伎《かぶき》の古典が歓迎されるだろうという兄さんの意見で、黙阿弥《もくあみ》や逍遥《しょうよう》、綺堂《きどう》、また斎藤先生のものなど色々やってみたが、どうも左団次や羽左衛門《うざえもん》の声色《こわいろ》みたいになっていけない。僕の個性が出ないのだ。そうかといって、武者小路《むしゃのこうじ》や久保田万太郎《くぼたまんじゅうろう》のは、台詞《せりふ》がとぎれて、どうも朗読のテキストには向かないのだ。一人三役くらいで対話の朗読など、いまの僕の力では危かしいし、一人で長い台詞を言う場面は、一つの戯曲にせいぜい二つか三つ、いや何も無い事さえあって、意外にも少いものなのだ。たまにあるかと思うと、それはもう既に名優の声色、宴会の隠芸《かくしげい》だ。何でもいいから、一つだけ選べ、と言われると実際、迷ってしまうのだ。まごまごしているうちに試験の期日は切迫して来る。いっそこうなれば「桜の園」のロパーヒンでもやろうか。いや、それくらいなら、ファウストがいい。あの台詞は、鴎座の試験の、とっさの場合に僕が直感で見つけたものだ。記念すべき台詞だ。きっと僕の宿命に、何か、つながりのあるものに相違ない。ファウストにきめてしまえ! という事になったのである。このファウストのために失敗したって僕には悔いがない。誰はばかるところなく読み上げた。読みながら、とても涼しい気持がした。大丈夫、大丈夫、誰かが背後でそう言っているような気もした。 人生は彩《いろど》られた影の上にある! と読み終って思わずにっこり笑ってしまった。なんだか、嬉《うれ》しかったのである。試験なんて、もう、どうだっていいというような気がして来た。「御苦労さまです。」国十郎氏は、ちょっと頭をさげて、「もう一つ、こちらからのお願い。」「はあ。」

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