春秋座

「はい、ご返事。」前の便箋とはちがう、巻紙を引きちぎったような小さい紙片を差し出した。毛筆で書き流してある。 春秋座 それだけである。他には、なんにも書いていない。「なんですか、これは。」僕は、さすがに腹が立って来た。愚弄《ぐろう》するにも程度がある。「ご返事です。」女は、僕の顔を見上げて、無心そうに笑っている。「春秋座へはいれって言うのですか。」「そうじゃないでしょうか。」あっさり答える。 僕だって春秋座の存在は知っている。けれども、春秋座は、それこそ大名題《おおなだい》の歌舞伎《かぶき》役者ばかり集って組織している劇団なのだ。とても僕のような学生が、のこのこ出かけて行って団員になれるような劇団ではない。「これは、無理ですよ。先生の紹介状でもあったらとにかく、」と言いかけたら、青天|霹靂《へきれき》、「ひとりでやれ!」と奥から一喝《いっかつ》。 仰天した。いるのだ。御本尊が襖《ふすま》の陰にかくれて立って聞いていたのだ。びっくりした。ひどい、じいさんだ。ほうほうの態《てい》で僕は退却した。すごい、じいさんだ。実に、おどろいた。家へ帰って兄さんに、きょうのてんまつを語って聞かせたら、兄さんは腹をかかえて笑った。僕も仕方なしに笑ったけれど、ちょっと、いまいましい気持もあった。 きょうは完全に、やられた。けれども、斎藤先生(これからは斎藤先生と呼ぼう)の奇妙に嗄《しわが》れた一喝に遭って、この二、三日の灰色の雲も、ふっ飛んだ感じだ。ひとりでやろう。春秋座。けれども、それでは一体、どうすればいいのか、まるで見当がつかない。兄さんも、当惑しているようだ。ゆっくり春秋座を研究してみましょう、というのが今夜の僕たちの結論だった。 思いがけない事ばかり、次から次へと起ります。人生は、とても予測が出来ない。信仰の意味が、このごろ本当にわかって来たような気がする。毎日毎日が、奇蹟《きせき》である。いや、生活の、全部が奇蹟だ。

— posted by id at 05:54 pm  

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