大いに才能のある男

「そうだねえ。ちょっと幻滅だねえ。」兄さんは、淋《さび》しそうに笑った。「どうだい、もういちど斎藤氏のところへ相談に行ってみないか。あんな劇団は、いやだと、進の感じた事を率直に言ってみたらどうだろう。どの劇団も皆あんなものだから、がまんしてはいれ、と先生が言ったら、仕方が無い。はいるさ。それとも他にまた、いい劇団を紹介してくれるかも知れない。とにかく、試験は受けましたという報告だけでもして置いたほうがいい。どうだい?」「うん。」気が重かった。斎藤氏は、なんだか、こわい。こんどこそ、折檻《せっかん》されそうな気もする。でも、行かなければならぬ。行って、お指図を受けるより他は無いのだ。勇気を出そう。僕は、俳優として、大いに才能のある男ではなかったか。きのう迄《まで》の僕とは、ちがうのだ。自信を以《もっ》て邁進《まいしん》しよう。一日《いちにち》の労苦《ろうく》は、一日《いちにち》にて足《た》れり。きょうは、なんだか、そんな気持だ。 晩ごはんの後、僕は部屋にとじこもって、きょう一日のながい日記を附《つ》ける。きょう一日で、僕は、めっきり大人《おとな》になった。発展! という言葉が胸に犇々《ひしひし》と迫って来る。一個の人間というものは、非常に尊いものだ! ということも切実に感ずる。

 五月十日。水曜日。 晴れ。けさ眼が覚めて、何もかも、まるでもう、変ってしまっているのに気がついた。きのう迄の興奮が、すっかり覚めているのだ。けさは、ただ、いかめしい気持、いや、しらじらしい気持といったほうが近いかも知れぬ。きのう迄の僕は、たしかに発狂していたのだ。逆上していたのだ。どうしてあんなに、浮き浮きと調子づいて、妙な冒険みたいな事ばかりやって来たのか、わからなくなった。ただ、不思議なばかりである。永い、悲しい夢から覚めて、けさは、ただ、眼をぱちくりさせて矢鱈《やたら》に首をかしげている。僕は、けさから、ただの人間になってしまった。どんな巧妙な加減乗除をしても、この僕の|一・〇《いちこんまれい》という存在は流れの中に立っている杭《くい》のように動かない。ひどく、しらじらしい。けさの僕は、じっと立っている杭のように厳粛だった。心に、一点の花も無い。どうした事か。学校へ出てみたが、学生が皆、十歳くらいの子供のように見えるのだ。そうして僕は、学生ひとりひとりの父母の事ばかり、しきりに考えていた。いつものように学生たちを軽蔑する気も起らず、また憎む心もなく、不憫《ふびん》な気持が幽《かす》かに感ぜられただけで、それも雀《すずめ》の群に対する同情よりも淡いくらいのもので、決して心をゆすぶるような強いものではなかった。ひどい興覚め。絶対孤独。いままでの孤独は、謂《い》わば相対孤独とでもいうようなもので、相手を意識し過ぎて、その反撥《はんぱつ》のあまりにポーズせざるを得なくなったような孤独だったが、きょうの思いは違うのだ。まったく誰《だれ》にも興味が無いのだ。ただ、うるさいだけだ。なんの苦も無くこのまま出家|遁世《とんせい》できる気持だ。人生には、不思議な朝もあるものだ。 幻滅。それだ。この言葉は、なるべく使いたくなかったのだが、どうも、他には言葉が無いようだ。幻滅。しかも、ほんものの幻滅だ。われ、大学に幻滅せり、と以前に猛《たけ》り猛って書き記した事があったような気がするが、いま考えてみると、あれは幻滅でなく、憎悪《ぞうお》、敵意、野望などの燃え上る熱情だった。ほんものの幻滅とは、あんな積極的なものではない。ただ、ぼんやりだ。そうして、ぼんやり厳粛だ。われ、演劇に幻滅せり。ああ、こんな言葉は言いたくない! けれども、なんだか真実らしい。 自殺。けさは落ちついて、自殺を思った。ほんものの幻滅は、人間を全く呆《ぼ》けさせるか、それとも自殺させるか、おそろしい魔物である。

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