『武家物語』

「無い。」平然としている。「こんど鴎座《かもめざ》で、先生の『武家物語』が上演されるようですね。」と僕は、話頭を転じてみた。 何も答えない。鞄のスナップのあまくなっている個所《かしょ》を修繕している。「あそこで、」ひょいと、思いがけない時に言い出す。「研修生を募集している。」「そうですか。それにはいったほうがいいんですか。」と僕は、意気込んで尋ねた。やっと話が本筋にはいって来たと思った。 答えない。「やっぱり、だめなんですか。」 答えない。鞄をやたらに、いじくりまわしている。「誰でも、勝手に応募できるのかしら。」と、わざと独り言のようにして呟いてみた。 なんにも反応が無い。「試験があるんでしょう?」と今度は強く、詰め寄るようにして聞いてみた。 やっと鞄の修繕が終ったらしい。窓の外を眺めて、「わからん。」と言った。 僕は、もう何も聞くまいと思った。自動車は、駿河台《するがだい》、M大学前でとまった。見るとM大の正門に、大きい看板が立てられていて、それには、斎藤市蔵先生特別講演と書かれていた。 僕が降りようとしたら斎藤氏は、「君は、――どこで降りる?」と言ったので、それでは、この自動車を拝借してこのまま乗って行ってもいいのかしらと思って、「麹町です。」と恐縮して言った。

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