自動車は走った

 自動車は走った。「どちらへ、おいでになるんですか。」と僕は聞いた。斎藤氏は、返事をしなかった。五分も経《た》ってから、「神田《かんだ》だ。」と重い口調で言った。ひどく嗄《しわが》れた声である。顔は、老俳優のように端麗《たんれい》である。また、しばらくは無言だ。ひどく窮屈である。圧迫が刻一刻と加わって来て、いたたまらない気持である。「何も、」聞きとれないような低い声である。「怒って帰る事はない。」「はあ。」思わずぺこりと頭をさげた。だから、運転台に乗ればよかったんだ。「津田君とは、どんな知り合いなのかね。」「は、兄さんが小説を見てもらっているんです。」と言ったが、斎藤氏は聞いているのか、聞いていないのか、少しの反応もなく、黙っている。しばらくしてから、「津田君の手紙は、れいに依《よ》って要領を得ないが、――」 やっぱりそうだった。あれだけでは、なんの事やらわかるまい。「俳優になりたいんです。」結論だけ言った。「俳優。」ちっともおどろかない。そうして、それっきりまた、なんにも言わない。僕は、さすがに、じれったくなって来た。「いい劇団へはいってみっちり修業したいと思うんです。どんな劇団がいいのか教えてください。」「劇団。」低く呟いて、またしばらく黙っている。僕は、ほとほと閉口した。「いい劇団。」と、また呟いて、だしぬけに怒声を発した。「そんなものは無いよ。」 僕は、おどろいた。失礼して、自動車から降ろしてもらおうかと思った。とても、まともに話が出来ない。傲慢《ごうまん》というのかしら。実にこれは困った事になったと思った。「いい劇団が無いんですか。」

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