作品の話になると

「書いていないようだね。」津田さんは溜息《ためいき》をついた。「君は、日常生活のプライドにこだわりすぎていけない。」 冗談を言い合っていても、作品の話になると、流石《さすが》にきびしい雰囲気《ふんいき》が四辺に感ぜられた。本当に佳《よ》い師弟だと思った。紹介状を書いていただいて、おいとまする時、津田さんが、玄関まで見送って来られて、「四十になっても五十になっても、くるしさに増減は無いね。」とひとりごとのように呟《つぶや》いた言葉が、どきんと胸にこたえた。 作家も、津田さんくらいになると、やっぱり違ったところがあると思った。 本郷の街を歩きながら、兄さんは、「どうも本郷は憂鬱《ゆううつ》だね。僕みたいに、帝大を中途でよした者には、この大学の建物《たてもの》は恐怖の的だ。何だかこっちが、卑屈になってやり切れない。犯罪者みたいな気がして来るんだ。上野へでも行ってみるか。本郷は、もうたくさんだ。」と言って淋しそうに笑った。津田さんから、ちょっとお説教されたので、なおいっそう淋しいのかも知れない。 僕たちは上野へ出て、牛鍋《ぎゅうなべ》をたべた。兄さんは、ビールを飲んだ。僕にも少し飲ませた。「でもまあ、よかった。」兄さんは、だんだん元気になって来て、「僕もきょうは、一生懸命だったんだぜ。とうとう津田さんも、紹介状を書いてくれたんだから、大成功だ。津田さんは、あれでなかなか、つむじ曲りのところがあってね、ちょっと気持にひっかかるものが出来ると、もうだめなんだ。こんりんざい、だめだね。ちっとも油断が出来ないんだ。きょうは、よかった。不思議にすらすら行ったね。進の態度がよかったのかな? 津田さんは、あんな冗談ばかり言ってるけど、ずいぶん鋭く人を観察しているからね。うしろにも目がついているみたいだ。進はまあ、どうやら及第したんだね。」 僕は、にやにや笑った。「安心するのは、まだ早いぞ。」兄さんは、少し酔ったようだ。声が必要以上に高くなった。「これから斎藤氏という難関もある。なかなかの頑固者らしいじゃないか。津田さんも、ちょっと首をかしげていたね? まあ、誠実をもってあたってみるさ。紹介状、持ってるだろう? ちょっと見せてくれ。」「見てもいいの?」

— posted by id at 04:52 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.2186 sec.

http://crystal-wings.net/