演劇の勉強

「もう学校の様子も、だいたいわかったから、そろそろ本格的に演劇の勉強をはじめたいと思っているんだけど、兄さん、早くいい先生のところへ連れて行ってね。」「今夜は、ひどく真面目《まじめ》に考え込んでいると思ったら、その事か。よし。あした、津田さんのところへ行って相談してみよう。どんな先生がいいのか、とにかく津田さんのところへ行って、聞いてみようよ。あした一緒に行こう。」兄さんは、きのうから、とても機嫌がよい。 あすは天長節である。何か、僕の前途が祝福されているような気がした。津田さんというのは、兄さんの高等学校時代の独逸《ドイツ》語の先生で、いまは教職を辞して小説だけを書いて生活している。兄さんは、このひとに作品を見てもらっているのだ。 夜はおそくまで、部屋の整頓《せいとん》。机の引出の中まで、きれいに片づけた。読み終った本と、これから読む本とを選《よ》りわけて、本棚を飾り直した。額《がく》の絵も、ピエタのかわりに、ダヴィンチの自画像をいれた。意志的に強いものが欲しかったからだ。鵝《が》ペンを捨てた。少女趣味を排除したかったのだ。ギタは、押入れにしまい込んだ。ずいぶん、サッパリした気持である。ことしの春は、一生涯、あざやかな思い出となって残るような気がする。

 四月二十九日。土曜日。 日本晴れ。きょうは天長節である。兄さんも僕も、きょうは早く起きた。静かな、いいお天気である。兄さんの説に依《よ》ると、昔から、天長節は必ずこんなに天気がいい事にきまっているのだそうである。僕はそれを、単純に信じたいと思った。 十一時頃一緒に家を出て、途中、銀座に寄って、姉さんの結婚一周年記念のお祝い品を買った。兄さんはグラスのセット。下谷《したや》へ遊びに行った時、このグラスで鈴岡さんと葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲もうという下心。僕は、上等のトランプ一組。下谷へ遊びに行った時、姉さんと俊雄君と三人で此のトランプで遊ぼうという下心。どちらも、自分がこれから下谷へ行っても、充分に楽しめるように計画して買うのだから、ちゃっかりしている。グラスもトランプも、店から直接に下谷へ送ってもらうように手筈《てはず》した。 昼御飯をオリンピックで食べて、それから本郷《ほんごう》の津田さんを訪れた。僕は、中学へはいったとしの春に、いちど兄さんに連れられて、津田さんのお家《うち》へ遊びに行った事がある。その時、玄関にも廊下にもお座敷にも、本がぎっしりなので驚いた。

— posted by id at 02:53 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1965 sec.

http://crystal-wings.net/