兄さんは、やっぱり頭がいい

 兄さんは、やっぱり頭がいい。下谷のつまらなさを知っているのだ。 夜、のどが痛くて、早く寝る。八時。寝ながら日記をつけている。お母さんは、このごろ元気がよい。この冬を無事に越せば、そろそろ快方に向うかも知れない。なにせ、やっかいな病気だ。それはそれとして、五円できないかなあ。佐伯に返さなくちゃいけないんだ。きれいに返して絶交するんだ。どうも、お金を借りていると、人間は意気地がなくなっていけない。古本を売って、つくるか。やっぱり兄さんに、たのむか。 申命記《しんめいき》に之《これ》あり。「汝《なんじ》の兄弟より利息を取《とる》べからず。」兄さんにたのむのが安全らしい。僕には、ケチなところがあるようだ。 風いまだ強し。

 一月六日。金曜日。 晴れ。寒気きびし。毎日、決心ばかりして、何もせぬのが恥ずかしい。ギタが、ますます巧《うま》くなったが、これは何も自慢にならない。ああ、悔恨の無い日を送りたい。お正月は、もういやだ。のどの痛みは、なおったが、こんどは頭が痛い。なんにも書く気がしない。

 一月七日。土曜日。 曇。ついに一週間、無為。朝から、ひとりで蜜柑《みかん》をほとんど一箱たべた。てのひらが黄色くなったようである。 恥じよ! 芹川進。お前の日記は、ちかごろ、だらしがなさ過ぎるぞ。知識人らしい面影《おもかげ》が、どこにもないじゃないか。しっかりしなければならぬ。お前の大望を忘れたか。お前は、すでに十七歳だ。そろそろひとりまえの知識人なのだ。なんというだらしなさだ。お前は小学校時代に毎週、兄さんに連れられて教会へ行って聖書を習ったのを忘れたか。イエスの悲願も、ちゃんと体得した筈《はず》だ。イエスのような人になろうと、兄さんと約束したのを忘れたか。「ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遣《つかわ》されたる人々を石にて撃つ者よ、牝鶏《めんどり》のその雛《ひな》を翼の下に集むるごとく、我なんじの子どもを集めんと為《せ》しこと幾度《いくたび》ぞや」という所まで読んで、思わず声を挙げて泣いたあの夜を、忘れたか。毎日毎日、覚悟ばっかり立派で、とうとう一週間、馬鹿のように遊んでしまった。 ことしの三月には、入学試験もあるのだ。受験は人生の最終の目的ではないけれども、兄さんの言ったように、これと戦うところに学生生活の貴さがあるのだ。キリストだって勉強したんだ。当時の聖典を、のこりくまなく研究なさったのだ。古来の天才はすべて、ひとの十倍も勉強したんだ。 芹川進よ、お前は大馬鹿だぞ! 日記など、もうよせ! 馬鹿が甘ったれてだらだら書いた日記など、豚も食わない。お前は、日記をつけるために生活しているのか? ひとりよがりの、だらだら日記は、やめるがいい。無の生活を、どんなに反省しても、整頓《せいとん》しても、やっぱり無である。それを、くどくど書いているのは、実に滑稽《こっけい》である。お前の日記は、もう意味ないぞ。「吾人《ごじん》が小過失を懺悔《ざんげ》するは、他に大過失なき事を世人に信ぜしめんが為《ため》のみ。」――ラ・ロシフコオ。 ざまあ見やがれ! あさってから、第三学期がはじまります。 張り切って、すすめ!

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